人は皆、
それぞれに、それなりに、
理不尽を抱えながら生きているのでしょうが、
いやぁ、堪え難いね。
こういう時に、宗教というのは非常に平安な逃げ場になるものです。
以前は、宗教の枠のなかで生きていただけに、
その枠の外にいる今、“理不尽” をどう消化するのか、
自分自身、見所であります。
いやぁ、しかし堪え難いわぁ...。
“理解不能”
というのは、基本的に自分の常識と、相手の常識が、
水と油のように解け合わないだけの話で、
どっちも正しいと想ってる所が厄介なんだけど、
一方で、“真理” というものは確かにあって、
それはやはり俯瞰でモノを観る事が出来て、
何が正しいのかを客観的に道徳的に、建設的に
筋の通った判断する、という事なんだろう。
解りやすく言うと、
炒めるときは、油。
ゆでるときは、水。
揚げるときは、油。
蒸すときは、水。
ゴッホは、油。
雪舟は、水ときどき墨。
的なのが解ってれば良いんだと想う。
その、水も油も結局 “ちょっとした事柄のひとつ” でしかない訳で、
その選択が適切かどうか、それだけの話なんだけど。
ただ、見当違いな人っていうのは、
水で揚げようとしたり、油で蒸そうとしたりするのね。
その上、「いやいや、蛇口に“油”って書いてあったもん!」
とか、「だって、サラダ油のペットボトルに“六甲の美味しい水”って書いてあったの!」
とかウソ八百を平気で言いやがる...
あるかぁぁx〜ボケ〜〜亜序;f位jえt:ごkrz_;
ほんと、腹立つわぁ〜
いいんすよね、正直間違える事なんて、屁でもないのよ。
ウソをつくんじゃないよ、ウソを...
意見を述べる以前に、まず自分を見つめるベキなのですが、
そういう人に限って間違えを認めず、すぐに他人のせいにするんすよ。
死んでほしいわぁ、出来る事なら。
ただ、そういう人間が何パーセントか“存在する”という事は、
社会が成り立つ上で、そういう人間が、
何パーセントかは“必要”という事なのだろうか?
人間が止まってしまわない為に、“理不尽”は必要なのかなぁ?
かなわんわぁ...
否、頭では解るけど、生理的に嫌だわぁ...
そこがどうしても解せない僕もまた、
見当違いの住人なのかもしれない。
されど日々は続く...